理合と技


私が修行している拳法の<修行の心得>の1つに「理を知ること」とある.合理的に組み立てられ,生理学と物理学の理屈の上に成立している拳法の技法習得には,この理を知ることは欠かせない.当然,池田道院でも理合は大切に指導されるが,同時に御師匠様はよく,「体で覚えろ」と言われる.

理合を知ることはとても重要ではあるが,それが習慣として体に備わり,反射的に動けなければ「使えない絵に描いた餅」である.そして,理というのは技法を指し示す「指針」であって,技法そのものではないと思う.それ,ブルース・リー師匠が映画の中で「月を指さすのと似たようなものだ.指先に集中するな!その先の栄光が得られないぞ!」というではないか.大切なのは月である.指先,すなわち理屈ではない.理屈は月を示す道具に過ぎないのだ.

もっとわかりやすく言えば,理屈は根本方針の説明であるか,あるいはある状況の場合における技法の表れ方の一例を示すに過ぎない.実際には自分の体勢や相手との関係において技は千変万化する.固定的に技を捉えてこの技はこう,このようにすると決めてかかるのではなく,月を見なくてはならぬ.相手を見て技が自ずから決まらねばならない.そう言う意味でも技は相手と自分との共同作業である.

御師匠は「引き出しを沢山用意しておけ」とも言われる.どんな相手でもどんな体勢でも技が成立するためには様々なやり方を持っていた方が対応できると言うことだ.自分の独りよがりの技に走り,これがコツだ,と断定・限定できるようなものではないと仰る.よくよく心して修行したいと思う.

カテゴリー: 思想, 理合 | コメントする

技のキレ


この頃は,先日の演武会で披露した演武をどうしようかと思案していたのだが,それで演武について色々考えた.演武披露と言ってもほぼ内輪的な演武会だから気軽なものなのだが,それでも人前で演武すると思うと格好良くキレの良い演武をしたい.

そこで,見ていてすっきり歯切れが良く,いかにも使えそうな技に見えるにはどうしたものか悩みながら,拳法に限らず空手、その他いろいろな武道の演武を,ネットの動画で見ていった.其れで,自分なりに見ていて良いなと思った演武に共通して言えることは,技が速く見える,力が入らず柔らかく見える.軽く,切れそうな感じ,ということである.

上記は多分,同じことを別の側面から感じていると言うことだと思うが,これがどうすれば実現できるかというと,やはり昔から言う基本中の基本

1.無駄な力みが無い,脱力した体の運用

2.効率的で無駄をそぎ落とした体動

3.遅速緩急強弱がはっきりしていること

この3点につきる.矢張り,そこなのだと思う.これらは,以前から松井先生から教えて頂いていることであるし,最近始めた居合でも,御師匠様が日々言われることである.

しかし,これが難しい.

勿論,其れは当たり前で,型武道ではこれをどこまでも徹底して追求するのであるから,それだけ奥が深いものと言える.

まず,速い,と言うことへの誤解がある.筋力を使って物理的に速く動けば速く見えるかと言うと決してそうではない.そもそも人間が視覚でシグナルを認識してから動作するまでの速さは200ミリ秒より速くはならないのだから,相手の動作がそれより速いと対応できない.すなわち物理的な速度はそこまで必要ではないのだ.だとすれば,何を持って速く感じるかというと一つは比較だ.

運動状態を比較して大きな変化があれば良い.例えば,静の状態から,一気に最大加速に達するような動きは速く見える.物理的に高速に達していても徐々に加速していくような動きは鈍く見える.これは人間が比較によって知覚しているということに起因する.遅速緩急を言うのも,この錯覚効果を狙っている.

もう一つは,準備動作を隠すことだ.相手が本動作に入ってから反応しようとしても、人間は知覚速度が遅いので対処が間に合わない.そこで,予備動作や準備動作から次の動きを推測して対応することで知覚速度の遅れを補っている.ということは,準備動作を極力小さくして,観察者から其れを隠せば、観察者は動作の起こりを予測することが出来ず動作の認識が遅れることになる.従って、速く見えるはずだ.この”準備動作”を兎に角小さくしてしまうと言うのが実戦的にも重要であると言うことだ.

以上の2点を実現しようとするならば,まず,無駄な動作を極限までそぎ落とした最小限の効率的な動きを追求すべしと言うことになる.さらに,筋肉の余計な緊張は物理的な速度を遅くするし,余計な動作を増やすことにも繋がるので,脱力が非常に重要になる.前者は,技の理合いを考え,合理的な動きを追求することで実現できるはずである.そして後者は兎に角,経験値を上げることであろう.技に必要な運動を,小脳の処理するパターン的な運動へ落とし込んでいくことで,考えなくても動くところまで持って行く必要がある.そのためには刷り込みのような反復練習が必要なはずだ.最後に,力を入れずとも力を出せるようにしなくてはいけない.良く力を抜けと言うが,物理的に力が足りなければ,結局相手に作用を伝達できないのは当たり前である.これは,力むなと言うことであって,力を入れなくても十分な力を出せるように肉体を鍛えることは”前提”なのだと思う.拳法にも,金剛の肉体を鍛え,と言う教えがある.この部分は最重要では無いが,この<肉体のパワー>という下支えを軽視しては,使える拳法にはならないだろうと思う.

以上,言うはやすし,行うは難し.分かっているつもりではあるが,なかなか難しい,故に武道の修行の奥深さがある...

f:id:drnemo:20141125002201j:plain

カテゴリー: 武道的実践, 演武 | コメントする

拳法と居合道


拳法の修行のためにいろいろ調べている内に、結局,居合道も始めてしまった.
無双直伝英信流居合兵法 耕山会.源氏発祥の地として由緒正しい多田神社の一隅にある道場で週一回の修行である.神域での刀法の修行故,雰囲気は最高である.武道とは斯くあるべし(残念ながら2018年現在,練習場所は神社ではなくなってしまった).

私は最近の武道のスポーツ化を好まない.ポイント制がどうこう、ルールがどうこうとか,技法についてもバックスェーとかレバーを打つ..などなど,どうも横文字でテクニックとして語ることに抵抗がある.
拳禅一如.剣禅一如.武道とは心を磨く修行である.

居合を始めての感想だが,実際に真剣で斬り合うことが出来ない故に型武道であることに徹する居合は,型に徹しているだけに身体操作への意識が極めて高いと感じた.
特に耕山会の田尻先生は古式の身体操作を強く意識しておられ,呼吸法と脱力を重視しておられる.

拳法の演武でも,私は動きが堅いことが課題であった.それで,居合道場での脱力の練習は拳法にとっても良い練習になっていると思う.今,私の拳法の課題は,「脱力と速さ」である.如何に初動が見えない突き蹴りを繰り出すか.如何にして相手を力ませずに崩すか.如何に自分が崩れずに流れるように体を捌くか.

体捌きそのものは,英信流はどちらかというと空手系に近い.入身の捌きが多い拳法とは違う部分も多いのだが,脱力と呼吸については共通項が非常に多い.勿論それらは拳法の道場でもずっと言われてきたことであるが,違う形で修行することで効率よく修得できると言うこともあるようだ.
気勢の修練という意味でも大いに効果がある.乱捕にも応用できそうだ.

f:id:drnemo:20140726163914j:plain

末松師範代に教えを請う.剣禅一如.

カテゴリー: 居合, 思想, 武道的実践 | コメントする